5時からサラリーマン(男)の生態

ジャンルはテキトウ、内容もテキトウ。思いついたまま書いています。

ヒーローを待っていても世界は変わらない を読んで

ここ最近、読書記録ばかり書いている。

なんでか?

本ばかり読んでいるからかというとそうでも無くて、日常生活に不満があるから、本に現実逃避をしているのかも知れない。

現実逃避と言っても、フィクションに逃げるのでは無く、ノンフィクションに逃げている。今ある、目の前にある現実から目を背けつつも、存在しているものへ目を向ける。少し引いた感じで、自分を見る様にしている。

単なる批評家、評論家になってはいけないと思いつつも、こうやって本の事を書く自分がいる。

 

さてさて、

ヒーローを待っていても世界は変わらない は、2009~12年に内閣府参与を務めた、反貧困事務局長の湯浅 誠氏の著書。

 

巨大なグレーゾーン

「お上に上申」型民主主義、「水戸黄門」型民主主義がうまくいくためには条件がある。一、善悪がはっきりしていて、勧善懲悪が成り立つこと。

二、黄門様が常に正しい採決を下されること。

三、関係者全員が、中には面従腹背の者がいたとしても、とにかく全員が平伏してその採決を受け容れること。

 

しかし、これが、現実世界では稀にしか怒らないことは明らか。

誰かが、黄門様の裁きに対して、

「われわれのことをとやかく言う前に、あんた自身が身を切ったらどうなんだ」と言いだし、焦点はいつの間にかハチベエのリストラ問題に移行し、ハチベエは、いったいどういう仕事をしているのか。ハチベエをわれわれの年貢(税金)で食わせるのは無駄じゃないのか。助さん格さん二人も護衛が要るのか。助さんに拳銃を持たせれば格さんはいらないんじゃないか。そもそも黄門様は隠居の身ではないのか。あんたが諸国漫遊する金もバカにならない。だいたい藩のことに幕府が口を出すべきじゃない。二重権力じゃないのか、等々。。。

 

 

"溜め"

少なからぬ人たちの"溜め"を奪い続ける社会は、自身の"溜め"をも失った社会である。アルバイトや派遣社員を「気楽でいいよな」と蔑視する正社員は、厳しく成果を問われ、長時間労働を強いられている。正社員を「既得権益の上にあぐらをかいている」と非難する非正規社員は、低賃金・不安定労働を強いられている。人員配置に余裕のない福祉事務所職員とお金に余裕のない生活保護受給者が、お互いを「税金泥棒」と非難しあう。膨大な報告書類作成を課されて目配りの余裕を失った学校教師が子どものいじめを見逃す。財政灘だからと弱者切り捨てを推し進めてきた政党が、主権者の指示を失う。これらはすべて、組織や社会全体に、”溜め”が失われていることの帰結であり、組織の貧困、社会の貧困の表れに他ならない。

(『反貧困』岩波新書 2008)

 

→"溜め"という余裕が無いとギスギスする。

 

 

多くの人たちが「決めてくれ。ただし自分の思い通りに」と個人的願望の代行を水戸黄門型ヒーローに求めるのではなく、「自分たちで決める。そのために自分たちで意見調整する」と調整コストを引き受ける民主主義に転換していくためには、さまざまな立場の人たちと意見交換するための社会参加、政治参加が必要です。そして時間と空間は、そのためのもっとも基礎的・物質的条件になります。

 

→決めてくれ、ただし自分の思い通りになんていうことは、贅沢。権利を主張するならば、意見調整するという調整コストを引き受けなければならない。

 

 

「足湯」は何のためにするのか-民主主義は、時間と空間の問題-

空間づくりが場づくりです。

そこには人々が話し出すための工夫、仕掛けが必要です。

ただ空間があればいいかと言うと、それだけでは人は来てくれない場合があります。

中略

「足湯」は、一人十五分程度が一クールとなっています。椅子を並べて希望者に座ってもらいます。椅子の前にたらいを置き、お湯を張っておきます。ボランティアはしゃがみ、足をさすってあげたり、終わったときに足を拭いてあげたりします。

 自分が椅子に座っていると想像してみてください。足をお湯につけている先にボランティアの学生さんなどが向き合ってしゃがんでいます。目が合います。目線は自分より下です。そして十五分間はそこから逃げられません。「熱すぎませんか」「温まってきましたか」などと聞かれるうちに「最近どうですか」などと聞かれます。何か話さないわけにはいかないですよね。

 それが「足湯」の目的です。たらいのお湯がツール(手段)。本当の目的は「大丈夫ですか」と聞いても「大丈夫です」としか答えない信頼関係の不足をツールを使って乗り越える事です。

 

→私自身、職場、家庭でも「大丈夫ですか」で終わらしてしまっている事が多く、足湯は目からウロコ。

ただ、職場や家庭で足湯をすると変な人なので、

足湯に代わる何かいいツールがあればいいな。。。

 

 

「高度経済成長」という断絶

 日本においてコミュニティとは、あるものか、いらないものか、基本的にはそのどちらかだったのではないかと思います。「人と人を結びつける」「人と人との関係を結び直す」「一からコミュニティをつくる」というのはどういうことで、そのためには何をすればいいのかというノウハウの蓄積が、日本には乏しい。これは日本の特殊性だと言っていいと思います。

 中略

 高度経済成長は、地方から都市への大移動であると同時に、地域コミュニティ(地縁)から会社コミュニティ(社縁)への所属替えと言える側面を持っていたのではないかと思います。

 

ヒーローを待っていても世界は変わらない

 時間と空間を確保できずに参加感をもてないままに留め置かれている人たちのニーズに寄り添い、その矛盾を引き受けて私たち自身で参加のハードルを下げていくことができれば、ニーズは顕在化し、より多くの工夫と仕掛けが蓄積されていきます。

 困難を抱えた人は、新たなチャレンジを課してくれる人として「先生」とされ、その困難を解決していくことが地域と社会の課題解決力を高め、工夫と仕掛けを豊富化するチャンスとして歓迎されます。

 それは、誰が「支え手」で誰が「支えられ手」かわからないような地域・社会です。あるときは、支え、あるときは支えられる。役割が固定化せず、固定化しないから、支えられることに対する抵抗感も生まれず、「おたがいさま」を実践できます。

 豊富化された工夫と仕掛けが、横(社会)に縦(政治)にと普及していけば、より多くの人たちがあのてこの手でお互いの接点を探りあう状態が生まれます。

 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では、自分たちで調整し、納得し、合意形成に至ることが、何よりも自分たちの力量の表れと認識されるようになります。

 意見の異なる人との対話こそ面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。同じ意見にうなずきあっていても、それを超える創造性は発揮されないからです。

 難しい課題に突き当たるほど、人々はその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫の開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。私たちは「こんな面白いことを誰かにさせるなんて、なんてもったいない」と感じるでしょう。

 だから「誰か決めてくれよ。ただし自分の思い通りに」と言う人を見たら、ヒーローを求める気持ちの奥にある焦りや苛立ちにこそ寄り添い、それに向き合って一緒に解決していくことこそ、自分へのチャレンジだと感じるようになります。「誰の責任だ」と目を血走らせるより、課題を自分のものとして、引き受け、自分にできることを考えるようになります。それで何か新しい工夫が見つかれば、それが自分の財産となるからです。

 「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になります。

 そのとき、議会政治と政党政治の危機は回避され、切り込み隊長としてのヒーローを待ち望んだ歴史は、過去のものとなります。

 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界はよくならない。

 ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。

 私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。

 その積み重ねだけが、社会を豊かにします。

 

→人任せ、評論家になってはいけない。

問題があったチャンスと思って解決する姿勢が肝要。

 

 

おわりに

 慣れない人たちの活動は、山のような失敗を重ねるだろう。あたりまえだ。そもそもいまの社会には、失敗できるチャンスが少なすぎる。どこの世界に失敗せずに成功した人がいるだろうか。失敗を包み込む余裕(”溜め”)のない社会では、人々は縮こまって自己防衛に努めるしかない。失敗できない社会は、成功できない社会だ。「即戦力」ばかり求めていたら、戦力はいずれ枯渇する。自分の意見を社会化すれば、必ず反対の意見に出会う。そうでなければ、全体主義社会だ。そのとき反対意見の撲滅を狙えば、戦争になる。戦争になれば、強いほうが勝つ。だから少数派は外交技術に長けてないといけない。それを社会レベルで言えば異なる意見との調整となり、個人レベルで言えばコミュニケーション能力となる。抽象的なものではない。工夫と仕掛け、スキルとノウハウの蓄積だ。それが民主主義を活性化する。理想は、この社会が丸ごと民主主義の学校となることだ。創意工夫にあふれる社会でもある。

 それは永続するプロセス、超長期戦である。一つ団体をつくっても、すぐにどうにかなるものではない。一人ひとりが主権者を選び取り直し、時間と空間を確保し、異なる意見と調整していくためのスキルとノウハウを身につけた職人になる必要がある。職人はすぐには育たない。しかし「すぐに目に見える成果を」という焦りが現状を生み出した。その焦りが大切なものを見失わせる。

 

中略

 

「気づいた人が責任者」という言葉がある。

私も、責任者の一人だ。

 

→失敗出来るチャンスは、貴重。

すぐに目に見える成果を求めると焦りになり、大切なものを見失わせる。

 

 

教訓:湯浅氏が内閣府参与になった際、日和ったな的な事を言う人がいたが、そんな事は無く、そこで、新たな課題を見つけ、調整していったスゴイ人だという事をこの本を読んで思った。

で、成果は?とすぐに目に見える成果を求めてはいけないんだ、きっと。。。